社団法人 日本南画院 故 河野秋邨 作品集ページです 日本南画の巨匠。日本南画院会長・理事長。
愛媛県生まれ。田近竹邨に師事する。昭和62年没。97才 明治23年8月8日生まれ。田近竹邨(ちくそん)に師事。帝展などに出品する。大正10年水田竹圃(ちくほ)らと日本南画院を結成。昭和35年松林桂月らと同院を再興し理事長となり,海外での巡回展などでも活躍した。愛媛県出身。文展、帝展 京都府文化賞功労賞 勲3等瑞宝章 正6位 ご意見ご感想をお寄せください。
社団法人 日本南画院 故 河野秋邨 作品集ページです
社団法人 日本南画院の歩み (日本南画院から)
南画(南宗画)は、唐(中国)の王維に始まるとされる。わが国には江戸時代にもたらされた。やがて逸然、隠元、木庵等禅僧の相次ぐ渡来とともに徳川治世の、儒学の奨励にともない儒学者、知識人達が南画のもつ独特の気韻と高き精神性を理解し、芥子園画伝や其他多くの画蹟等により、祇園南海など学者文人によって愛好作画された。
これにより文人画的色彩を多分に帯びつゝ、大雅、蕪村、玉堂、木米、米山人、文晁、崋山、竹田等により日本独自の南画の基礎がきづかれました。明治に入り田能村直入、幸野楳嶺により明治十四年京都府画学校設立(現京都芸大前身)され、直入、自から校長となり続いて明治二十九年、東京に於いては児玉果亭、野口小蘋、小室翠雲、松林桂月により日本南画会成立、京都に於ては直入、鐵斎により日本南画協会の設立(現日本南画院はその発展途上にあり)やがて大正十年幾多の経緯を経つつも三井飯山、河野秋邨、小室翠雲、池田桂仙、水田竹圃、矢野橋村等により最初の日本南画院が創立され全国南画家の結集と発表、研究の場を持つことが出来ました。
戦中は勿論、戦後はとくに依然として南画家の作品発表の場も少なかったが終りに昭和三十四年五月八日京都に於て松林桂月、矢野橋村、河野秋邨、を中心として社団法人日本南画院が結成。以来、回を重ねること実に四十二回。その間会長も松林桂月、矢野橋村、河野秋邨、河口楽土、直原玉青と継承され理事長も河野秋邨、直原玉青、蒋池武、渡部悟仙、町田泰宣と引き継がれ現在に至っています。各時代に渉り、日本南画は手法的にも理論的にもほぼ完成されつつあったといえますが、日本風土の中により多くの素材を求めながら東洋美術の精粋と言われる水墨画、墨彩画が日本画、西洋画の写生手法を巧みにとり入れつつ近代日本画壇に翠雲、桂月とともに革新的な新南画の創造がなされたことは近代日本画壇に特筆すべき偉業であり、現日本南画院の指導精神をもなすものであります。
本年度試行基準は下記のとおりでした。
(1) 原料の使用割合 同一産地の荒茶50% (静岡県は70%)
(2) ブレンド茶の表記 特になし
(3) 産地銘柄の表示 仕上げ茶を製造した産地
(4) 荒茶産地と仕上げ加工地が異なる場合 特になし
来年度からは。
(1) 原料の使用割合 100%
(2) ブレンド茶の表記 同一産地の使用割合が50%以上100%未満
「○○茶ブレンド」
(3) 産地銘柄の表示 荒茶を製造した産地
(4) 荒茶産地と仕上げ加工地が異なる場合 一括表示の記載個所の近くに仕上げ加工地を明記 (ただし、製造者から仕上げ加工地が分かる場合は省略可)
改正案は「静岡茶」「宇治茶」などと産地銘柄を うたうときの「産地」は、荒茶を製造した都府県、市町村などとする。荒茶産地と仕上げ加工地が異なる場合は加工地を一括表示欄の近くに記載する事も盛り込んだ。
既に流通団体の全国茶商工業協同組合連合会は中央会の改正案を承認している。
堀内米次同連合会理事長は「業界の雰囲気は急速に変化し、今や100%が業界の流れとなった。消費者の意見を最大限くみ取った」と承認の理由を話している。
生産サイドも「100%」を受け入れる声が多い。・・・・・・
静岡県茶業会議所が今年、試案として独自実施した「70%以上」は一年限りとなり、来年度からは「100%」の基準で実施される見通しとなった。
今年は、産地表示問題で揺れ動いた茶業界でしたが、ようやく一本化に向けての動きが出てきました。お茶は茶木の品種や、生産される土地、気象、肥料等の影響で異なった風味が味わえます。
香気・味・形状・水色・・・・それぞれの特色を活かし、お客様に御提供していくのが本来の姿だと私は考えています。
100%産地のお茶に拘り、産地の特色を活かしたお茶も良し、お店独自でのブレンド茶も良し・・・・・お客様の好みに合ったお茶を今後も、番茶屋は提供し続けてまいります。